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#ぴろーとーく。『パコちゃん』はメンヘラの漫画じゃない。

2026年1月10日

改めて『パコちゃん』で何を描きたかったんだろう。ということを振り返って書きました。

改めて、というか、もうしょっちゅう振り返ってるんだけど、私は『パコちゃん』で何を描きたかったんだろうか。

たぶん、キャッチコピーにあるような「三十路メンヘラ泥沼恋愛譚」を描きたかったわけではないと思う。

「思う」と書いたけど、違うならこのコピーを提示された時に、拒否すればよかったのに、受け入れているのは、自分でも何を描くのかわかってなかったからだ。


連載は、驚くほど「するっと」決まった。

だから、十分な準備をした上で臨んだわけではなかった。

正直に言うと、「よくわからないまま」始まったのだ。

だけど、毎週やってくるネームと原稿の締切を、きっちりこなして、最後まで物語として成立させた。

「私には才能があった。」とか、そんなことを言いたいわけではない。だって、仕事だから。やるしかない。

でも、そんな作家の「底力」頼みの製作体制でよかったんだろうか。

初めての連載なのに。


でも、じっくり詰めた打ち合わせをしても、作品がよくなったかどうかはわからない。むしろ、勢いでやってしまったから描けた作品な気がする。

なぜなら、担当編集者とは、「ジェンダー観」について、どうしても埋まらない溝というか、渡れない川というか、そういう隔たりがあるのを感じていたから。

そこを擦り合わせていくとなると、もう漫画どころの話ではなくなってしまう。

私や編集者のアイデンティティに関わる問題だから。


でも、私は『パコちゃん』で、そういうところまで掘り進めて、探究することを、可能な限り試みた。

自分が生きてきて、ずっと感じてきた違和感を、どうにか消化したかったのだ。

私にとっては、生きることと、今までの人生を否定されるぐらいの一大事だったのに、同じようなことを考えている人が、どこにも見当たらなかった。

それが孤独で仕方なくて、でも「そういう人間もいるのだ。」ということを描き残しておきたかった。


今、「多様性」の時代となった。

多様な性、多様な生き方に、名前が与えられ、「確かに存在するもの」として認められるようになった。

名付けられることによって、安心できる人がたくさん増えたと思う。

人間は、どこかに所属していると、安心できるものだから。


でも、私の場合は、それが逆に息苦しくなった。

「で、あなたはどこにいる人なの?」

「そういう振る舞いをするってことは、あなたはここに属してるんでしょ?」

「あなたはこういう発言をしていた。だったらなぜ、そういう容姿を選択しているの?」


私は、私でしかない。

だけど、ジェンダーと性を扱う「女性」作家なら、ただの「私」でいることを許さない人たちがいる。

「多様性」なんて、嘘っぱちだと思う。

こんな言い方をすると、批判されるだろうか?

でも、立場を明らかにしないなら、「フェミニズム」の話をしてはいけないのだろうか。

私は、強くて賢くて、時流を読んで批判する作家ではない。

そんな一段上から、人間を見てるわけじゃない。ただ、「実感」を描いている。

どういう実感かというと、

「当事者としての実感を持つことができないのに、当事者としての意見を求められる苦しさ。」


私は女性。

自分の性別に、全く疑問はない。

だけど、「女性」としての「当事者」感がない。

どこにも所属している実感がない。

だから、「現代の女性」としての意見を求められても、正直「わからない」と答えるしかない。

だけど、女性でいたくないわけでも、他の性別のことならしっくりくるわけでもない。

この違和感は何なのか。


『パコちゃん』で答えは出ただろうか。

問いを投げただけで、答えは出せなかったと思う。

今でも、どう答えるべきかわからない。

ただ、問いは投げた。社会に。

誰かに届いたかはわからないけど、後追いで、その問いを受け取ってくれる人がいるかもしれない。


とにかく、私は「メンヘラ」の漫画を描いたんじゃない。これだけは、はっきり言える。

私の初商業連載作。

右も左もわからないまま、見切り発車して、だけど、「世に問いを投げる」という作家としての役割は全うした。

答えのない物語は、今の時代嫌われる。

けど、それでも描いた。

答えは、人生の中で見つけていく。


私は、たぶん一生同じことを、違う方法で描き続けていくんだろう。

その第一歩として、『パコちゃん』を世に置くことができてよかった。


と、素直に思える日が、いつか来るだろうか。

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© 我妻ひかり
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