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今月摂取したカルチャー(2026年8月)

2026年8月31日

『ナイトボーン-夜哭-』

『ナイトボーン-夜哭-』

私はこの映画をハッピーエンドだと思ったんだけど、みんなどう思ったんだろう。


『ローズマリーの赤ちゃん』に例えられているみたいだけど、そういうことは別に気にせず、なんとなく観に行った。(『ローズマリーの赤ちゃん』は好き。)

公開前から心待ちにしていたというわけではなく、「時間あるし、なんか映画でも観るか。」ぐらいの気で観た。

最近、信じられる物語のジャンルが「ホラー」しかなくて、「ちょうどいい時間にホラーやってるし観ようかな。」って。そういう映画の観方をしたのは久しぶり。いつも「これ観るぞ。」って決めて映画館に行くから。


ちょうど、私は落ち込んでいる時期だった。

パートナーとの関係性に悩んで、うまくいかなかった原因について、ひたすら考え込んでいた。

前回のエッセイでも書いたけど、「クールな彼女」である自分を保ち続けることに限界を感じて、むき出しの感情をぶつけてしまったから。

そういう姿って、「人間らしくない」「お行儀が悪い」「面倒くさい」態度だと思われることはわかってるんだけど、「良きパートナー」である以前に、私はただの「人間」で、人間だって動物なんだから。

「理性」で生物として不自然な形を保とうと努力することが、「賢さ」だとされているけど、それに対しては、人によって色んな解釈があるだろうし、私も言いたいことは色々ある。

一応断っておくけど、「野蛮になれ」「攻撃的になれ」「わがままになれ」「自分本位になれ」とか、そういうことを言いたいわけじゃない。

その辺のことは、また少しずつ言葉や作品にしていきます。


で、『ナイトボーン』の話に戻ると、たぶん多くの人は、「育児ノイローゼ」とか「母親になることについての恐怖」、「理想の母親像や役割の押し付けに対する反発」とか、そういうことを描いていると思うんじゃないかしら。私も、たぶんそういう映画なんだろうとは思う。監督の意図は知らないので、なんとも言えないが。

だけど、私はこの映画から、「女性」や「母親」であることよりも、もっと広く「人間」であることへの息苦しさを感じたのだ。


社会的な意味での「人間」でいること。

最近、「人間らしさって何なんだろう。」ということについて繰り返し考えているから、そう思ったのかも。

人間は「人間」という"種"であっていいと思う。

動物としてオリジナルな「人間」という種。

でも、「文明を捨てて自然に帰る」とか、「本能のままに生きる」とか、そういう胡散臭い(笑)ことはあまり思わない。

田舎生まれの人間なんで、理想化された自然の中での暮らしも、「所詮人間が飼い慣らした自然でしかない。」と思っているから。


北欧の文化については詳しくないけれど、最後「森」が母子を救い、迎え入れようとする場面で、彼女たちは「解放された」ようには見える。

主人公は、「母親」や「妻」や「女性」という役割から。そして、彼女の息子は、「人間」としてお行儀よく育てられ、躾けられていくことから。

だけど、彼女が最後、「森」へ向かうことはない。家の軒下に立ち止まったまま、微笑んでいる。映画はそこで終わるので、その後彼女がどうしたかはわからない。

だけど、私には、それが彼女の「選択」に見えた。

「"人間"として、私はこの子を育て、生きていく。」

彼女の穏やかな表情から、私はそういう意志を読み取ったのだけど、それは私の勝手な解釈かも。

どちらにせよ、私はこのラストは、ハッピーエンドを描いていると思ったし、私はこの映画に救われました。

物語の受け取り方って、本当に受け手の心理状態に左右されるのだな。と、身を持って感じた。何回も思っていることだけど、今回特にそう思ったな。


ところで、もし私が子育てをするとしたら、どんな環境で暮らしたいと思うんだろう・・・。

全然見当もつかない。だって、母親になることですら想像できないのに。


この文章を書きながら、私は『ローズマリーの赤ちゃん』じゃなくて、『ロスト・ドーター(原題: The Lost Dauther)』(2021)という映画を思い出した。なんとなく。

あの映画は、ただただ怖かったな。


(2026/08/31)


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© AZUMA Hikari
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